蟲毒の戦士:『キック・アス』

何だか騒ぎが大きくなって「いや面白いけど大絶賛とかされるもんじゃないよこれ」ってな感じが拭えないです『キック・アス』。監督はマシュー・ボーン(『スナッチガイ・リッチーと組んでたプロデューサー)監督作は『レイヤー・ケーキ』『スターダスト』。


マシュー・ボーンという人のファンタジーはとにかく境界が曖昧で、その理由はどちらの世界の人間も狂って見えるからで、どちらの世界が狂ってるのか次第に分からなくなってくるんです。象徴的なのは船長役のロバート・デ・ニーロ。「俺は船長らしく、男らしくしないといけないのに、綺麗な服を着るのが、女装が好きで好きでたまらないんだ」という告白を聞いた瞬間、「あれおかしいな。やってることはキチガイなのにひどく真っ当な葛藤抱えてやがるぞこの変態」とか思えてしまうのです。その逆転が奇妙な爽快さを生んじゃうわけで。あ、死人が出るとオーディエンスが増えるという演出は大爆笑。楽しそうだなマーク・ストロングていうかミシェル・ファイファーが魔女役ってだけでもう名作でいいと思うんだ。『ハリポタ』はヘレナ・ボナム・カーターの魔女ベアトリクスを拝む映画。『アナルニ』はティルダ・スウィントン白い魔女を拝む映画。異論は認めない。



この映画はいったい何処が舞台なのか。
ヒーロー姿の青年がビルから飛び降りる世界。「僕は飛べる」という願望を冗談で済まさない奴らが済む世界。これはみんな言ってる。ではこの映画の特異点であるクロエ・モレッツこと少女ミンディの済む世界は何処なのか。「父親が娘を撃つ世界」とは何処なのか。
彼女はこの世界の住人じゃありません。母親が息を引き取ると同時に生まれた彼女は、生まれながらにして死んでいる。生ける死人であるのです。ニコラス・ケイジ(息子の名前にカル・エルとかどんだけ)は彼女に「キャラクター」であれ、という教育を施します。彼女を生まれ直させるために。「俺たち漫画になろうぜ」と。そしてコミックにはキャラクターと彼らが住む世界があるってこと。つまり「世の中をコミックにしてしまおうぜ」ってな感じで、ダディは世界を変えることで娘を生かす方法を選んだんです。
世界を変える方法って?
この映画の変身は、彼らのコスプレは結果をもたらしてはくれません。戦果を上げるのは重さにして10gに満たない、一発の鉛玉です。クロエ・モレッツことヒットガール最後の討ち入りで『夕陽のガンマン』の音楽がかかったのはジョークでもなんでもなく、この映画が「一発の銃弾でケジメを付ける」現代の西部劇であるという主張なんです。ていうかこの映画、銃の存在感が人間のそれとは桁外れに重いんです。これは『キック・アス』原作と映画、そのメディアの違いでもあります。絵で描かれた銃は悲しいかな何処までも記号でしかありませんが、実写で撮られた銃の存在感は極めて凶暴です。銃が大きな力を持つ世界では銃を持つしか生き残る術はありません。暴力の中で生きていくには自分も暴力にならなければいけない。毒をもって毒を制す。


だからダディはミンディを撃ったのです。愛する娘を死なせないために、彼は愛する娘を殺すのです。彼女の世界を変えるために、何度も何度も引鉄を引いて。彼女を暴力そのものにするために。おかげで彼女はほら、自分が死なないために笑って人を殺せる、とっても素敵な殺人幼女になりました。


てなわけで『キック・アス』は無関心に対する怒りと行動を起こす勇気が世界を変えているように見せかけて、
「勇気じゃ人は殺せねえよ。世の中を変えるのは、つまり暴力。お分かり?」
というお話にしかなってないってことです。
「勇気があるから銃を取るんじゃない。銃があるから勇気が出るんだ」って言い換えてもよし。
マシュー・ボーンお得意のペテンなやり方。僕こういうの大好き。


「この娘の将来が心配だ」なんて貧しい倫理観を持つ方にはこの映画の結末にあまりいい印象を持たないでしょう。死にたくないから生きている僕たちには、「空しい人生」を過ごす僕たちには絶対に理解できないでしょう。生きるために死ねる彼女の心意気なんて対岸の火事でしょうから。
Born to KillでありAnother Way to Die、この言葉は彼女そのもの。
彼女がこの先どんな暴力に押し潰されたとしても、それで最後を迎えることになったとしても、彼女はいつも通り下品な言葉を吐きながら、ケラケラ笑って死ぬでしょう。理不尽な暴力にまみれたこの世界で、父親の暴力という愛が溢れたあの世界で。まったく、こんな気高い幼女の心配をするなんて、そっちの方が野暮ってもんですよ。