獣の檻:『SPLIT』

今、わたしは檻の中にいる。
足を食われ、服を破かれ、散弾銃を手にして。
今、わたしは引き鉄を引く。


何処かも分からないパイプまみれの暗い通路の向こうから、その獣はやってくる。
その強靭な四肢で壁や天井を這い回り、ひとつひとつ照明を壊しながら、
その獣はやってくる。
人を守るため、人の身体という檻の中で、人の知恵と想像力が生み出した、可能性の獣。


父が私に教えてくれた。
銃の撃ち方を、獲物の仕留め方を。
わたしは狩人だと、教えてくれた。
教えてくれたのに。
あの時引き鉄を引いていたら、わたしは、違う自分になれただろうか。


今、わたしは檻の中にいる。
今、わたしは引き鉄を引く。
ただ自分の身を守るために。
目の前の獣を、ただ殺すために。



今回の「シャマランを探せ!」は難易度低め。

約束の小箱:『キャビン・イン・ザ・ウッズ』



「ある国のある町に、赤毛のきれいな女の子が住んでいました」


物語に用意された最初のお約束は、やっぱりこうだろう。パンツ丸見せも忘れちゃいない。勿論お約束のご褒美だ。
女の子の名前はデイナ。ケルト神話ダーナ神族、その母なる神にちなんだ名前を持つ少女。彼女は友達と連れ立ってある森の奥の山小屋で素敵な週末を過ごすつもりだった。物語のお約束通り、にこにこ笑顔で車に乗り込み、沢山の手続きとお約束をくぐって、みんなで楽しい素敵な週末へ。田舎道を走り、門番に出会い、門をくぐり、谷を抜け、森の奥へ、素敵な山小屋へ。そして彼等は選ぶ。その山小屋の地下室で、好奇心に負けて、ついに「それらの中の一つ」を開けてしまう。


そこから先は誰にだって分かると思う。勿論、鮮血だ。カポーが欲情しセックスを試みようとするなら、画面はたちまち真っ赤に染まるだろうし、男が勇気を見せようとするなら、様々な文法が彼等を楽しく無残に殺すだろう。人に流れる体液の中で、観ている人にとって最もカタルシスをもたらすもの、それは血液に他ならないとでも言うように、素敵な山小屋は容赦なく血に染まっていく。何故ならこれは僕らが遠い昔から分かっていたお約束で、絶対不可避の手続きだから。


デイナはくぐる。扉を開け、蓋を開け、また扉を開け、様々な選択と手続きを経て、様々な可能性をすり抜けて、更に奥へ、小屋の底へ。「死にたくない」という本能こそが自己破壊の根源だなんて思いもしないで。ただ奥へ。奈落の底へ。




遠い海の向こう、とある国に、一人の女性と、ある箱にまつわる昔話がある。
遠い昔、あるものたちによって、一人の人間の女性が造られた。彼女は人の魅力の全てとある箱を与えられ、ある男の元に嫁がされ、ある男は兄の言いつけを守らずその女性と結婚してしまう。そして全てを備えた彼女も好奇心という怪物には勝てず、あるものたちからの贈り物である、“箱”を開けてしまった。箱にはこの世のあらゆる厄災が詰まっており、彼女が箱を開けたことで、世界には災厄が満ち、人々はとっても苦しむことになったのだそうだ。
お話では全てが解き放たれた箱の底に残ったものがたった一つあるのだそうだけど、彼女はすぐ蓋を閉めてしまったので、底になにがあったのか、知っているのは彼女だけ。それは本当にあったのか。あったとして、それはどんなものなのか。


この映画は、それを僕らに教えてくれる。



『キャビン・イン・ザ・ウッズ』最高でした。この映画全てがご褒美です。その世界の土壌がまず素晴らしい。「世界はオカルトという原理を基盤として成り立っている」とかもう大興奮。監督は『クローバーフィールド』の脚本家で知られるドリュー・ゴダード、脚本も兼任。そしてあのジョス・ウェドンが脚本に協力。撮影は『フロム・ヘル』、『ドラッグ・ミー・トゥー・ヘル』のピーター・デミング。編集は『アベンジャーズ』のリサ・セリック。監督以外超鉄板スタッフ。以降ドリュー・ゴダートが鉄板になることを祈る。キャストもかなり豪華で驚きました。主人公に『ハプニング』クリスティン・コノリー、『ヴィレッジ』フラン・クランツ。『マイティ・ソークリス・ヘムズワースは相変わらず脳味噌が無いようでなにより。『バーン・アフター・リーディングリチャード・ジェンキンスと『ザ・ホワイトハウスブラッドリー・ウィットフォードの古参コンビはとてもいい仕事。そして最終盤に現れる「あの女優」で腹筋崩壊。そうだよな!!異形から人類という種を守るのは“彼女”の役目だもんな!!
ちなみに、日本版予告は僕らにとっての「禁断の箱」だ。絶対に開けてはいけない。絶対に開けてはならない。

ぼくらの伯父さん:『イリュージョニスト』

仕事が忙しく、劇場を逃してしまい、脚本がジャック・タチであると知らずに観賞。で、主人公の名前がタチシェフでビビる。「え、これジャック・タチなの!?本当だ、パントマイムだ!!ていうか『ぼくの伯父さん』の演技まんまだ!!」という感じで。

ってこれ魔法使い視点の『シンデレラ』か!!開始20分ですでに傑作の予感。


マジでいい。これはたまらない。台詞が殆ど無く、演技で説明を行うとこにタチ・リスペクトを感じる。エジンバラの意味するところはやっぱり“異世界、お城”なのだろうか。シルヴァン・ショメのタッチって男性より女性のが受けがよさそうだ。


部屋の中にキャラが一人というシチュエーションが多く、そこに傾注された演出が素晴らしい。これ凄い難しいのよ。視線がそのキャラ一人に集中するから。語りも独り言台詞もないので肉体の動きで感情を描かなければいけないし。非常に優良なパントマイム・アニメーション。


アリエッティ』でどこが不満かと言えば、いや凄い沢山あるけど、好きな部分もだけど、ロングショット(階段とか)と微妙なミドルショット(団欒とか)が多い部分だった。『イリュージョニスト』は徹底したカメラの固定っぷりで、もの凄い突き放し感。


ギリギリまで手描きだそうで。3Dは車など、「回転が必要な剛体」に使用されてるそうですが、その合成、調和度が脳汁ダダ漏れの出来。他にも霧にけぶる水面や、バン・デシネ風の英国背景が盛り沢山で、もうたまらない。カオスっぷりは『ベルディブ』に軍配だけど、『イリュージョニスト』はとにかく丁寧で地味な描写が素晴らしい。


『ファンタスティックMr.フォックス』や『メアリー&マックス』などと比べて、『イリュージョニスト』はギリギリまで観客の判断、投影に任せられている作品。能動的でないと汲み取りは難しいかもしれない。趣旨を自発的に想起させるものが寓話であるとすれば、これはおそらく正しい作りなのだろう。


しかしお国は違うけれど、ジャック・タチバスター・キートンの系譜とか勝手に思ってる自分がいる。チャップリンなどが好きな人は絶対に触れておくべき作品だと思う。『アーティスト』や『ヒューゴ』などと比べてもリスペクトの仕方がとても上品だ。主人公が劇場に逃げ込んだ時スクリーンに映されているのは『ぼくの伯父さん』のワンシーン。あのインテリアデザインは今見ても新しい。作画スタッフは主人公の演技のアニメーションを習得するため、『ぼくの伯父さん』と『プレイタイム』を徹底的に観返したそうで、つま先立ちしてから腰を折り、腕を突っぱねてキョロキョロするとことか、完全にジャック・タチ


ジブリが推す作品だけあって、「滅びゆく人たち」の物語だったりする。1959年の英国、ある激変の時代の話。選択には喪失が付きまとい、時代に馴染めない人間は確実に、ひっそりと消えていく。時間経過のコントロールが非常に巧みで、同じ風景の積み重ねは勿論、少女の髪の長さなど細やかな指定がとても心地いい。全ては錯覚かもしれない、おそらくそうだろう。しかし、誰かの中に残るものというのは、きっと、確かにあるんだ。



シルヴァン・ショメとかの監督を観ると思うのだけど、今日本で盛んに行われている「実写と見紛うばかりの精巧な背景」をアニメでやるってことに、どうやら僕はアレルギーがあるらしい。人間っていうフィルターを通さないと伝えられない風景というのが、多分あるんだ。


そう考えると『ホッタラケの島』の僕内評価がグングン上がってく訳で。

橋の人

八月十九日未明、トニー・スコットがロサンゼルス、ビンセント・トーマス・ブリッジで亡くなったという報が。
氏の車はトヨタプリウス
「一方通行で、後戻りできない地形」として、様々な作品で橋を選び、映してきた。
赤い帽子がトレードマークの映画監督。
哀悼の意を。





画家でCMやMPVを手掛け、映画監督としては『アンストッパブル』が、製作総指揮としては『ザ・グレイ』が遺作となる。


『ペラム123』でジョン・トラボルタ演じるライダーが橋の上でデンゼル・ワシントンに放った言葉を思い出す。
「ウォルター、あんたは俺のヒーローだ」

最近消化した映画。
ナチスが最も恐れた男』、『5デイズ』、『レバノン』、『灼熱の魂』、『ラバー』、『ミラージュマン』、『ミステリーメン』、『シングルマン』、『ラブ・アゲイン』。


戦場でワルツを』を人に薦めるにあたって観ると補強になるレバノン内戦もの(一時大戦からのフランス委任統治下、スペイン・ファシズムファランヘ党の辺りを説明している教材として)を探してていろいろ吸収。スペイン独裁政権下だと実はギレルモ『パンズ・ラビリンス』なのだけど、やっぱりなかなか無い。『灼熱の魂』は戯曲『インセンディーズ』だと観てから気付いた。「赦し」に関して凄いことやってる映画なのだけど、これを嬉々として人に薦めてくる某先輩はどうかと思う。いや好きですけどこれ。


『5デイズ』は北京五輪の報道の影に隠れてしまった戦争の、戦争犯罪のお話。ボリビアオセチア、ロシア辺りの情勢知ってると相当面白い、のだけど、なんというかこれでもかというくらいレニー・ハーリンなアクションが盛り沢山。果たしてこの種の作品にこういう面白さが必要なのか。いや好きですけど。


「ある日突然タイヤが自我を持つ映画だ。可及的速やかに消化しろ」とのお師匠さんの指令により迅速に吸収した『ラバー』。なんというか酷い。超面白い。「理由がない」ことへのオマージュとして撮られているのだけど、何処まで本気なのか分からないさじ加減がもう酷い。


『ミラージュマン』TLで流れてきたチリ産ヒーローもの。相当よく出来ている。「ヒーローであらねばならなかった」主人公の切り出しが素晴らしい。やはり南米は暴力のレベルが違う。広く触れられるべき作品だと思うので、是非。


シングルマン』はおすすめされたので。


ラブ・アゲイン』は『カーズ』、『ボルト』、『ラプンツェル』のダン・フォーゲルマン脚本作品で男女のやり取りが絶妙な映画。恐ろしく突き抜けた台詞の連続。すごいとこまでいく。スティーブ・カレル、ジュリアン・ムーアライアン・ゴズリングケビン・ベーコンエマ・ストーンで僕によし。


で、『ウォーキング・デッド』が最高だった。死者が生者のふりをしてる中を生者が死者のふりをして歩くという非常にダラボンらしい皮肉めいた演出。人数集まると途端に不和が生じるとか素晴らしい。『ミスト』大好き。そして手斧。手斧最高。あと人肉アクセサリー映像最高。腸のネックレス。生存者の頭数が揃うとすぐに不和が生じる。ほんとうにこわいのはやっぱりにんげんなのね。



で、『おおかみこどもの雨と雪細田守×奥寺佐渡子作品。
鉄板。お伽話であり子守唄。この作品に「理由」を求めるなんて野暮。ていうか画面に配置された記号が的確なのでそれだけで満足。告白に躊躇する舞台がやはり「橋」で、ああ……、と思う。しかも橋の下の川面に民家の光が映りこんでいて、もうそれだけでそこがどういう場所なのか分かる。


父親の名前が凄い気になったのだけど、父親の気配を表現するトコに必ず「黄色」があるので、まあそういうことなのだと思う。終盤、母親が着ている合羽も黄色。あとは「水」かな。向こう側をはさむ時に必ず水や鏡、映すものがある。冒頭のコスモスの花に関しても説明は最小限、しかし明確。あ、チングルマかもしれない。


娘の一人称語りで進行する形態、「思い出として終着する」作りというとこで、山田洋二監督『たそがれ清兵衛』と共通する部分がある。こういう語り口は映画によい余韻を付け加えることが多く、「好き嫌い」はあるがなんとなく満足して席を立てる、という効果を与えやすい。


もし、『幸せへのキセキ』が「娘の語り、ナレーションによって進行する」映画であったのならば、おそろしいまでのノスタルジーに満ちた作品になることは想像に難くない。『ライフ・イズ・ビューティフル』は最後に一言語りを入れてくるギリギリの仕掛け。あれはずるい。


物語の中の人物を語り手に据えることで、「この物語のおかげで、私は今生きています」感を増量する。対して主人公一人称語りはお話をニヒルかつ皮肉的に、突き放した距離で見せることが可能なやり方。チャンドラーが超上手。


主人公でない登場人物の語りが起こす化学反応としてものすごく分かりやすいのが『ショーシャンクの空に』だろうか。


アバター』も主人公の一人称語りの作品なのだけど、そこに突っ込んで考えてるサイトはあんまないような。キャメロンはそこら辺“分かってる”監督なので、あの映画にとってのカメラの、ある視点の作りこそが実は凄いとこなんじゃないかと思ってるんだけど。『エイリアン2』だ。『エイリアン2』を観ろ。


アバター』の一人称語りとビデオログカメラの効果、そして最後のナヴィ族の男になった主人公が目を開くシーンに関しては、自己の肉体及び自己監視からの解放、意識についての考察がもっとあってもいいと思う。

劇場版『けいおん!』届く。で、真っ先に絵コンテにかぶりつく。キーワードが「かわいい」だけあって随所にそういう指定が。ロケ写真がまんま貼り付けられてて、あーやっぱりと思う。明確に「一期OPから」など過去からの引用指定も納得。


劇場版『けいおん!』絵コンテ。アクション指定が意味なさないくらいコマ切りが多い。あずにゃんが布団かぶるトコで4コマもある。「絵で説明する」類のコンテ。山田尚子さんも石原立也さんも動画畑の人だから、まあ納得。


読んで確信したのだけど、「ある表現を狙った効果」という指定、確信的な言葉が殆ど無い。ていうか全くない。やはり「なんかありそうなんだけど、作り手はあんまり大した事考えてないんじゃないか」という予想は当たってたぽい。


彼女たちのいる風景をただただ執拗に「きれいに!かわいく!」仕上げた結果この作品が生まれたのだと分かった。EDコンテまであるので大変嬉しい。しかしまあ、映像のメソッドとして「真似してはいけない例」の一つであることは間違いない。


ロケ素材を使えるところはそれだけで繋いでしまうという。もうなんというか、酷い。精巧な絵さえ見せれば観客が満足するんじゃないか、という力技。回想の指定が多く、「一期12話の私服、二期15話マラソンのシーン」など非常に細かい。(多分これ石原さんパート)


随所に見られる「生っぽく」という指定に戦慄する。それで通じる現場というのが既に恐ろしい。


まあ、そんなわけで京アニというスタジオは「伝えたいこと、言葉を様々な記号表現に置き換えて映像を作る」象徴的な演出が出来ないというよりする気が無いスタジオなんだなと再認識。よって『氷菓』の印象が「微妙」から「割とどうでもいい」になった。


なんだろうな。コーエン兄弟の『バーバー』みたいに、この場面は何を意味しているのか、探せばちゃんと記号が配置されてる映像に慣れてしまうと、この手の作品は本当に辛かったりする。


【蒙が啓けた】 『けいおん!』は自然主義


「ありのまま」であるために、彼女達が自然のままでいられるために、作り手の意図やそれに類する様々な雑音をあえて排除し、描かない。何故ならこれは「ありのまま」の作品であるからだ。なんだこれは。


かといって自然主義=環境映像となる訳ではない。