思考という内臓:『シャーロック・ホームズ』



ガイ・リッチーという監督は「時代遅れ」を撮ってきた監督だ。


ボクシング・リングの上に机を構え、町のチンピラが雁首揃えて賭けポーカーをやる、そういう監督だ。
ロシアン・マフィアの近代的ビジネスライクなヤクザスタイルを嫌うボスが仕切る街、ロンドン。
街のチンピラ、そのドンが世界の王様になる。そういう時代が、その昔あったんだ。


今更ですが無印『シャーロック・ホームズ』の感想です。一ヶ月経てば『シャドウゲーム』のソフトが発売されるので布教活動です。ライオネル・ウィグラム原案、監督はガイ・リッチー。撮影に『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』、『ブレイブ・ワン』などニール・ジョーダンと組んでる印象、フィリップ・ルースロ(いやでも『コンスタンティン』もこの人なんだよね)。音楽はハンス・ジマー。俳優はロバート・ダウニー・Jr、ジュード・ロウレイチェル・マクアダムスケリー・ライリー、そしてマーク・ストロング。お色気映像として、股間に枕一丁でベッドに拘束されるR・D・Jと金色のバスタブで死ぬ丸裸のジェームズ・フォックスが拝めます。僕得。
シャーロック・ホームズという大人気キャラクターは超マイペース人間として描かれることの多い探偵だけれども、ここまではしたないホームズは初めてでした。原案ライオネル・ウィグラムのコミックアートはマッチョイズム溢れる絵面でドキドキしましたが、ここまで汚くなったのはやはりガイ・リッチーの性癖によるところが大きいと思います。




非常にお金のかかった映画で、その資金を1891年、十九世紀のロンドンを丸々作ることに使ったというのが、この作品のキモであると思います。つまり、総体的な見方ですが、この映画は「思考の宮殿」からの逆算、ロンドンという街の映像でホームズの人格表現をやっているのでは、と。


未舗装の道、泥にまみれたロンドン。泥水でズボンや外套の裾が汚れるのを「当たり前」だとそのまま生活する人たちが暮らす街。過剰なまでに映し出される蛙や豚といった生き物の内臓。はしたないまでに内部構造をむき出しにした萌え毒ガス機械。液体や気体が流れる管と、肉のように群がり油で濡れる構造体と、それを繋ぐ縄と鎖、それを支える錆びた骨組み。呼吸するように蒸気を吐き、湿度の高い肉の熱に踏まれて石畳が冷気を放つ、肉と泥と石と歯車で出来た歪な大都市。このロンドンはどうしようもなく生き物だ。そしてこのロンドンにホームズが思考を(なんですかあの推理は。完全な推理はもはや未来予知になるとか、どう考えても爆笑ポイント)張り巡らせた途端、考える肉、つまり都市がホームズの思考を投影した一つの巨大な脳味噌に見えてくるんです。


エレガントだとかスタイリッシュだとか、多くの人が望む清潔で安易な偶像。そんなもの、この映画には一切ありません。あるのはむき出しの鉄骨で景観の整っていない都市と、様々な動物の死体。泥にまみれた市場と、身なりのだらしない酔っ払い。中年男の脂ぎった肌。夜の闇の中、雨に濡れてテラテラ光る聖堂の屋根と、おしっこを漏らすように液体を噴射する玄関アーチ。



「この街は変わる。時代が変わるのだ」



僕らの時代を、未来を見据えたホームズの視線。さよなら、知的でお洒落な紅茶の国。さよなら、シックなお髭の紳士の国。時代遅れ、大歓迎。こういうひねた視点の変化があるからガイ・リッチーという監督は面白いんです。願わくば出来るだけ多く人が、出来るだけ色んな人が、この異様な臭気の内臓に触れてくれますように。




余談ですが、『シャドウ・ゲーム』におけるガイ・リッチーのホームズ・ラヴ傾向はますます高まり、「イギリスという小さな島国に収まらない、とてつもないニューロンを持つ男」として描かれるようになります。そうです、序盤のワトスン訪問映像です。新聞のスナップや写真、ありとあらゆる情報が貼り付けられ、樹状突起が放つシナプスのように赤い糸が張り巡らされている密室映像ですよ。国外すら推理の視野に収める巨大な脳味噌。「今度の舞台はヨーロッパだ!!」という説明をユーモラスかつ端的に行っている優れたシーンだと思います。いや、部屋そのものは不潔で超汚いですけど。


あ、ハネムーン列車襲撃時のセクシーショットは悩殺ものです。「ワトスン君、隣に寝たまえ」とオカマ化粧で腋毛全開。ウホッ、いい胸筋。なんてホモホモしい。いいぞぉおお、もっとやれぇええええええ!!やりまくれぇえええええええ!!!!(四代目・東方憲助の口調で)

強制勃起戦艦:『バトルシップ』



映画はマンパワーだ。


「CGは素晴らしい」 確かに。でも小手先の作業が簡略化され、どれだけ楽になったとしても、人の仕事というのは、人間が汗をかいて必死に活動するものだ。現場というのは、今現在、大抵の場所ではそうだ。



監督は『キングダム』『チンコック』のピーター・バーグ(この映画にも出演してたらしいのですけど、何処にいました?彼を見付けにもっかい劇場行かないといけないかも)。撮影は『マンコック』『ドリーム・ガールズ』『サブウェイ123』のトビアス・A・シュリッスラー。編集は『キングダム』『ウンコック』のコルビー・パーカー・Jr。ていうか同じチームで撮っててこんだけ違う映画が出来るとか、器用なのか頓着がないのか。脚本は『RED』のジョン・ホーバー×エリック・ホーバー(『RED』はやっぱり監督のロベルト・シュヴェンケがいけなかったんだな。ドイツ人の撮り方は律儀すぎて作品からユーモアを奪ってしまう場合が、多々ある。ていうかこの人下手っぴぃだ。『フライト・プラン』の構成とか)。音楽はジマー傘下のスティーブン・ジャブロンスキー。この人のスコアと製作会社ハスブロのおかげで、「あの『トランスフォーマー』のスタッフが」という宣伝文句が。しかし、『トランスフォーマー』からマイケル・ベイを引くと傑作が出来上がるという公式が、これで証明されてしまった。


主演は“ガンビットテイラー・キッチュ。『ジョン・カーター』は彼の人間力が足りなかったおかげで大コケしたと聞きましたが、なるほど、超納得。「本当の主人公は俺だ!」ていうか「もう彼が主人公でいいじゃん!!」とまで思いました浅野忠信は『マイティ・ソー』に引き続きいい仕事。主人公の兄貴役にステラン・スカルズガルドの息子、アレクサンダー・スカルズガルド。海の藻屑となった後、某海賊船に回収されて親子めでたく海賊暮らしに違いない。ヒロインのブルックリン・デッカーより歌手のリアーナのがかわいくてそっちばっかり気になったり。ヒロインの父親兼提督役に“娘のためなら仕事をサボる工作員リーアム・ニーソン。両足義足の陸軍退役中佐役のグレゴリー・D・ガトソンは大変素晴らしい仕事してました。その話は後で。


話は本当に酷い。「主人公のバカが治る」系の筋なのだけど、これは許しがたい。しかし、上手だ。というのも舞台が「隔絶された前線」だからだ。現場と本部をどう区分して描くか、というのは物語に層を持たせる時に必ず必要な手管になるのだけど、ここで「出来ない理由」を敷いてしまったのは上手い。この「宇宙人バリアー」はとても上手い。だから通信、待機、行動の手順が混乱したままでも問題ないし(むしろそう描いているし、“船もの”では連絡系統、指示だしこそが肝なのだ。『マスター・アンド・コマンダー』だ)、航空支援が時空を越えてやってきて大失敗をしてしまうこともない。「話はくだらなかったのに何故か面白かった」という感想が散見される理由は、おそらくここではないかと思う。あ、兵器映像はどれもたまりません。宇宙人の独立遠隔兵器、通称ヘッジホッグとか。「背後で爆発、兵器のドヤ顔見切りシーン」は最高でした。いえ顔はありませんでしたけど。


何か酷いことばかり書いてますけど僕はこの映画大好きです。なんたって最高のエクスタシーがありましたから。『沈黙の戦艦』以来の、久しぶりのエクスタシー。『バトルシップ』の舞台はハワイ、真珠湾。勘のいい方なら、もうお分かりかもしれない。



そう、戦艦ミズーリだ。



第二次世界大戦終戦直前に就役し、硫黄島朝鮮戦争湾岸戦争で動員された戦艦、通称:ビッグ・モー。あのバトルシップだ。
よってBGMはこれだ。

さらに、これだ。

そして、これだ。



分かってる!!最高に分かってるじゃないかピーター・バーグ!!本当にバカだなぁピーター・バーグは!!!ロケンロー!!!!てなわけで、『バトルシップ』という題名は「宇宙人の乗ってきたものだ」と勝手にミスリードしていたド低脳の感想がこちらになります。



マイティ・モーがロックン・ロールしてからのこの映画は本当に最高だ。



兵隊の仕事は行進することだ。そして何かを運ぶことだ。戦場に戦力を運ぶこと。自身が戦力となるのならば、自分を戦場まで持っていくことが、まず第一の仕事になる。スピルの『戦火の馬』で、僕が一番「戦争をしている」と思ったのも馬が山の上まで大砲を運ぶ一連のシーンだった。行軍、兵站、補給関係の映像は戦争映画には絶対不可欠で、多くの物語は爆炎の下よりも、むしろそういったシークエンスで生まれることの方が多い。この映画に用意されたクライマックスでは、「物を運ぶ映像」、その機能が存分に発揮されている。主人公たちが運ぶもの、それはミズーリに残された最後の一撃、50口径40.6cm砲の砲弾だ。重さ1tもの砲弾を使用可能な第二砲塔まで運ぶ。これが今作のアメフトだ。艦内移動距離にして150m。「急げ!!敵が母星との通信を成功させる前に!!」というタイムリミットも勿論ある。やっぱりアメフトだ。ミズーリの狭い通路を(ロケの一部はマジでミズーリ艦内だったそうで)若造が爺さんが男たちが、汗水垂らして必死に運ぶ。そして発射される砲弾。赤熱化し、砲身を駆け上り、空に消えていく砲弾。そう、勃起だ。


そしてSF海戦映画であるこの映画のもう一つの見所、それは宇宙人を素手で殴るおっさんだ。『インデペンデス・デイ』などに代表されるマニア垂涎映像なのだけど、『バトルシップ』よりもその絵面が優れている作品にはお目にかかったことがない。何せアフガンで傷を負った両足義足の退役軍人がマッチョな宇宙人とガチンコするのだ。しかも「俺に任せろ」と車を降りた後、義足の足元から全身パン・アップで戦闘態勢。黒人のおっさんが黒字のTシャツに「ARMY」プリント。アホか!!!最高にかっこいいじゃねぇか!!!!本当にバカだなぁピーター・バーグは!!!!ロケンロー!!!!!「戦争で負った傷は戦争でしか癒せない」と字面で書くとえらく真面目に見えますが、いえ、やめましょう、こんな時、言葉で感情を飾るのは無粋ってもんです。ああ、勃起だ。


てなわけで、『眼下の敵』(Uボートも堪能できるし駆逐艦映画だったら絶対にこれ!!)に並ぶ肉弾海戦ものの傑作がまた生まれてしまいまった。いえ、違う意味で。




映画という文化は「初めての接触」に沢山の夢を思い描き、超自然的な現象の一部、根源霊的な総意としての宇宙人を数多く作り出してきたけど(最近だと『ノウイング』とか)、最近「地球に来るのがやっと」の宇宙人が多くてたまりません。『District 9』や『世界侵略LA』もそうだったっけ。そういう作品って、「宇宙っつったってさ、生命体が政治的に発達すれば何処も同じじゃん?」的な諦観が漂ってて、僕はそっちのが好きです。従って、僕に宗教はありません。

カンヌ激震アレルギー



自己確認というか、定期的に自分の嗜好を書き残すことで思考に付箋を貼る文章。
嫌いな作品ある?という話が出たので、今回はその話。「観た映画をクサす」という習慣がないと確かにないかもこういう文章。嫌いというか「受け付けない。正視に堪えない」映画の話になっちゃいますが。このブログは僕の「これが好きこれが好き!!」ばかりだったので、たまにはこんなお話も。



シティ・オブ・ゴッド』は喜劇である。この命題を真とするなら、それはどのような要素によるものか。


はい、フェルナンド・メイレレスですよ。あのブラジル人です。フィルモグラフィは『シティ・オブ・ゴッド』、『ナイロビの蜂』、『ブラインドネス』の三本で。僕はこの『シティ・オブ・ゴッド』と『ブラインドネス』というのが、もう苦手で苦手で仕方が無いのです。どこが苦手かと言いますと、


「人間って、こんなに汚くて、醜くて、臭くて、本当に本当に本当にどうしようもない。だから愛しいんです」


と言うところ。『ブラインドネス』のシーンで説明いたしますと、終盤光を失った人たちが街で雨に打たれて、まあ、いわゆる「恵みの絵」なんですが、感動的な音楽で雨を受ける人たちを幸せそーに撮ってるあのシーン。自分でどうしようもないとクソを塗っておきながらそれをきれいにきれ〜〜〜〜いに装飾する、あの神経が超苦手な訳です。『シティ・オブ・ゴッド』に関しては、「子供が銃を撃つ。銃で撃たれる」映像が無理でした。いまさら良識人振るなと怒られそうですが、僕がどうしても受け入れられないのは、それを娯楽に仕立て上げようとしてるところ。最高にポップでスピーディなMTV風の音楽と編集。(ダニー・ボイルとは違うぞ) 僕、これ無理でした。こんなに相性の悪い「さらし」に出会ったことが無かったです。
ああ、最近ですと『輪るピングドラム』が相性悪かったです僕。悲劇をお芝居風に「さらして」いくのが幾原監督の持ち味で、毎週毎週ドキドキしながら視聴しているのですが、作品そのものはとても苦手であるというアンビバレンツ。流れる血を赤いペンギンマークにしてオシャレっぽい画面とかギブアップ寸前でした。
「ある現実をどんな味でコーティングして食べてもらうか」、要はさじ加減の問題で、一人称視点の皮肉語りで味付けされた作品とか大好きです。そういうアイロニーに満ちた作品で言うとアンドリュー・ニコルロード・オブ・ウォー』でしょうか。ひとの愚かしさを変な笑いに変換するのが上手なのはコーエン兄弟『ファーゴ』だったりしますが、ただ、それが過ぎると冷笑的な悪ふざけに見えてしまうので、難しいとこだと思います。行き過ぎたさじ加減というのは人に吐き気をもよおさせるほどの嫌悪感を抱かせるもんで、僕にとっては『シティ・オブ・ゴッド』と『ブラインドネス』がそういう作品だった、というお話。



シティ・オブ・ゴッド』は悲劇である。何故ならこれはとても不道徳な映像で、でも現実に即した出来事で、僕らはこれを倫理的に「いけないこと」だと思わなければならない。人としてのおかしさや愚かさに笑うことはあっても、楽しんではならない。生きるか死ぬかの瀬戸際で、まだ鶏の心配をしてしまう、子供の心理を笑ってはならない。悲しいと受け止めなければならない。僕らはただ知らねばならない。『シティ・オブ・ゴッド』は悲劇である。これは真である。故に現実は悲しく、人間は愚かしく、世界はどうしようもない。



吐き気をもよおす装飾というのはどういうものか、ネットスラングで分かりやすく。



シティ・オブ・ゴッド』テラ悲劇wwwwwww超不道徳wでも現実wうはwこれマズくね?wないわーwwwていうかバロスwwwww鶏とか無視して逃げろとwww低脳乙wwwww育ち悪すぎザマアwwwwwww悲シスwwwwキビシイ世界把握wwwwww俺PC前で超平和wwめしうまwww『シティ・オブ・ゴッド』うはw真実とかwゆとり乙wwwwwwテラ悲劇wwww悲シスwwバカスwwどうしようもナスwwwwwwwwwwwwwwwwwwww



そんな訳で、これが現実だと、これが人間だと突きつけられて、「スタイリッシュじゃん!!アリだね!!ノリノリだね!!」と、笑いながら子供の死体を指さして、あの街の実情を喜劇として吸収することも、「こういう味付けもアリだね。辛気臭い演出よりこっちの方が笑えてしまう。そこが妙にドライで、かえって真実味が増すよ」と、現実検証として悲劇を扱うことも、僕にはどうしても出来なかったんです。




とか言っときながら『ナイロビの蜂』大好きです僕。ル・カレだし。画面の色とか音楽とか大好きです『ナイロビの蜂』。しかもレイフ・ファインズレイチェル・ワイズダニー・ヒューストンだ。そしてビル・ナイだ。二〇〇六年はビル・ナイ多かったな。要は十字架の話だ。誰だマイケル・ベイの話をしたのは。『ザ・ロック』? ああ、あれはクソだ。最低だ。好きさ。大好きさ。初めて買ったDVDさ。ショーン・コネリーが元女王陛下の凄腕スパイとか一体なんのネタだっていうんだい。いい加減にしてもらいたいね。FBI科学者のニコラス・ケイジとか冗談にしか見えないね。あの毒ガスも大爆笑さ。どこのスタンドの元ネタだい。ああ、エド・ハリス海兵隊准将とか最高にも程があるよ。しかも部下がデヴィッド・モースだ少佐役だ。議員役のジョン・スペンサーとか狙いすぎだろう。もういい加減にして欲しいね。そして音楽はハンス・ジマーだ。このテーマ聴いてオチンポ勃たない男の子なんか漢の子じゃないね。

ユルマン補足



「劇場版なんだからもっとエモーショナルに、映画体験として昇華させるべき」というのは結構正しい感性で、ハリウッド系優良作品で性感帯を開発してきた証明でもある。けど、「感動が中途半端」といういわゆる情緒を測る言葉、相対的な数字で置き換えられない比較を持ち出してきた時点で、作品解釈ではなくなってしまう。伝統に則った形でないものは、「〜的」という枠に入るくらいで、「様々な形があるだけ」である、ということ。伝統ってのは必ずしもmustではない。


けいおん!』に関しては、「それをしないよ」というのを最初に言っているので、「音楽性の違い、みたいな。一回演ってみたかった」と「小芝居はもういい」と言っているので、「お芝居的なやり方を極力抑えた作品」、つまり「王道映画はやんないよ、ゴメンね」と最初に言っているんですこれ。ていうか普通の女の子のおしゃべりの延長でこういうことを仕組む吉田玲子さん脚本すげえ。なのでお互いの台詞が被ろうと、ベクトルが筋から外れようと、ガンガン発言する。「お芝居としての脚本」ではなく、これは女の子の「おしゃべり」だから。
これはジャンル殺しのようなやり方で、今年で言うと『アザーガイズ』が正にそうでした。「タフガイが死ぬ世界」を最初に描き、以降はひたっすらにグダグダするという素晴らしい構成。爽快バディ刑事ものでない映画であるために、これは冗長でなければならなかったのです。いや冗長なのはギャグがしつこいってのが一番の要因なんですが。いやだってマーク・ウォールバーグウィル・フェレルにキレる度に笑える映画なんて他に無いし、いいじゃん。あと台詞で映画論を否定して以降の演出に繋げるものとしてポンと出てきたのが『シューテム・アップ』でしょうか。僕の脳味噌最低。
「映画で人が死なないシーンってのは退屈だ。これからそういうシーンが続くようだったら、俺がお前を殺してやる」
というポール・ジアマッティの台詞でございます。よって、『シューテム・アップ』はラブシーンであっても人がバンバン死ぬ映画になる訳で。




並べて書いてみて気付く。要は「映画をどこまで読めるかどうか」というリテラシーに基づいた思考まんまだこれ。「〜をしてくれないといやだ」という受動で映画を観てないので、僕は基本的に嗜好の話が出来ないわけで。あぐあああああああ。ていうか『鋼錬』ならまだしも、「劇場版なのだから映画的な文法に則って、深いお話(意味不明)で、お安いお涙頂戴で、観客をイージーに満足させなければならない」という話を『けいおん!』でされるとは思いもしなかった訳で。女の子の私服パターン数を見て分かる通り、「作る人にも食う人にも大切にされてる」のがすぐ分かる映画ってのはそうないですよ。いや、みんなに愛されるために生み出された、体温だけを残して他をとことん脱臭された女子高生の生態観察って字面で書くとえらい背筋が寒くなりますが。

プリクラ映画:『けいおん!』

けいおん!』メモ。
思ったことを箇条書き。


年末には魔物が潜んでいた。今年は『けいおん!』だ。観賞環境は完全にアウェイ。HTTがにゃんにゃんする度に観客が笑い、その度に僕と『けいおん!』初体験の友人・ぴゅあろーの温度が下がっていく。「何が面白えんだこの萌え豚どもが」てな感じで。しかし作品はおそろしく出来がいい。参ったの一言。世の萌え豚処女厨さんたちにどこまでもお優しい作品で、正直ゲロ砂吐くくらいに甘ったるくってクソむかつく小芝居でしたが、これはもう男性には決して作れないかわいさです。おそろしく希少性の高い作品。女性の作るものってマジで凄い。


この作品の既視感は「見て見てわたしのプリクラファイル。一緒に楽しんで」と生徒に言われた時に近かった。“彼女達がいる景色のスナップ、その連続”みんな不自然に(いや自然なんだけど)距離が近い。何かに収まるようにして行動する様が、本当にプリクラ。並んで収まる絵で言うと寿司屋で演奏終えて外の階段にギューッと座ってたとこ。完全に二重フレームだった。あとOP。手書きの装飾はプリクラではお約束。


いわゆる“鬼作画”、“ロケ背景”がズラリな訳ですが、普通の映像作品だったらキメでもってくるようなシーンをふっつーに、ふっつーーーーに、じゃんじゃん使ってくるんです。そのシーンの連続性が、“他愛ない日常、眩しい日常”を見事に描いている。で、ぐあーっと盛り上がったと思ったら、風景にカメラがパンしてフェードアウト、で、次のシーン。その連続。こんな勿体無いこと普通しませんよ。なもんで最初から終盤までgdgdにも関わらず、当たり前の積み重ねに全然退屈せずに観れてしまう訳で。


僕が息を飲んだシーンはイギリスから帰国した後のいつものお茶会。タクアン眉毛が4つのカップに順番にお茶を注いでいくシーン、お茶を注がれたカップ毎にフォーカスしてくカメラで、もうなんじゃこりゃと思った。なんでこんな感動できる絵をふっつーの会話ん時に使えるの。


他アニメや洋画などで使われるダイナミックな構図やスローモーションはお笑いネタや場面繋ぎにしか使われていない。決着的なシーンはほぼ全て流され、なるべく感情を抑えるようにレイアウトが組まれている。そして基本構図は少女たちの視線と地平線がほぼ同じ高さ。徹底しとる。


どんな時でも「並んで歩く絵」にウェイトが置かれる。シネスコサイズとも相性がよく、女性作画陣の描くむっちり足の線がとてつもないエロさと健康的な匂いを醸し出していてもう土下座するしかない。これか、これがかわいいってやつなのか。


てなわけで、『けいおん!』はテンプレートの外し方がおそろしく上手い作品だと思います。男性の作る画一的な王道ではなく、そのズレている部分がおそろしく生々しい。「食べる、寝る」シーンが多いから人間が当たり前の動物に見える。


結構モラトリアムな作品だと読んでいたんですが、劇場版で各キャラの感情、その繋がりの再確認、そして大好きなあの娘に送る言葉、巣立った後もみんな一緒に飛んで行ける、など、超まともなことやられたのでもう完全に降参。女の子はお手々繋いで皆で一等賞って文化なのかこれ。


そしてEDが『さらば青春の光』のオマージュであると聞いてはっとする。

ベルギー製バンデシネ



スピルですよ。そう、『ティンティン』です。


冒頭、似顔絵描きのパレットからカメラが出てくる→コミックから立体へてとこでもうあらかた説明を終えている。畜生、分かってやがる。あとはもう破壊、破壊、破壊。主人公ポコチンの行動はほぼ全て破壊を伴い、且つ顧みない、振り返らない。終盤のクレーン肉弾戦闘は必見です。二次災害もなんのその。完全放置で物語は新たな冒険へ。シーンとシーンをいかに繋げるか、という意識に傾注した、退屈を完全に殺しにかかった作り。なにこの爺さん、化け物?『宇宙戦争』以上に何も残らないぞ素敵。あ、僕好きですよ『宇宙戦争』。


3D映像に関してですが、「作り物のハリボテをどうやったら役者に仕立て上げるか」という問題に一つの解答を提示しています。ライティングです。おっそろしく色が付いてギラギラしてます。終盤のサッカリンの形相(見た目はトム・ハンクスぽいのに中身はダニエル・クレイグという)の両面から照り付ける赤い光黄色い光が「生きているように見せる」効果として素晴らしい働きをしていました。スピル自身の指示で行われてるぽいです。


ていうか最高に男臭いし酒臭いですこの映画。ギャル成分ゼロ。ノーモア・お色気。チンポコオンリー。そっくり警部二人組みはサイモン・ペッグニック・フロストのおかげで容易に見分けが付くようでなによりです。

ミネバのセーラー服とか反則だろそれ。



この記事は多分にネタバレを含むので知りたくない方は読み飛ばした方が賢明かと。ていうかまさかブログで『ガンダム』記事を上げることになろうとは。あ、僕はガンダム的ゾンビ枠です。サイアム・ヴィストの声が永井一郎さんで、「すわ、これ『無印』のナレーション意識してのキャスティングなんじゃね?」と今更ながらに気付きました。その程度。ていうかデギンと一緒。はわわ。



ジオン回。ジオン回であります。
『ZZ』をがっつり補完してくれてご満悦の三話でしたがお話のカタルシスはそれ以上です第四話。無印こと『ファースト』好きにはたまらないです第四話。なんてったって見せ場の舞台がオーストラリアのトリントンだ。コロニー落としだ質量兵器だ。「はははははっ、見たか。ビグザムが量産の暁は連邦なぞあっという間に叩いてみせるわ」というドズル・ザビ中将閣下の質量兵器最強説は正しかったとか何とか。そんな感じだかどんな感じだかよく分かりませんがこの回は一年戦争時のMSが盛り沢山です。ザク1スナイパーとか嬉れション並みです。そんな訳だかどんな訳だか分かりませんがジオン・ダイクンが人類に与えた種がどのように発芽し、そして開花したのか。ジオニズムという思想に縛られた二人の人間の、一つの結末。そのお話。


二人の人間、その一人はロニ・ガーベイという少女です。
ジオン・ダイクンが提唱し、ザビ家が行った政策が実際的に人になにを与えてきたか。雨風邪をしのげる屋根、温かいご飯、そして共に過ごす家族と言う共同体。持たざる者に、スペースノイドに人としての真っ当な生活を与える傘としてのジオニズム。この女の子はその傘の下で育まれた命で、この娘の唱える「Sieg Jion」は勝利万歳を越えた、感謝の言葉に聞こえます。自分を構成する血肉、時間は全てジオンが与えてくれたもの。この世界の人間はみんな誰かの子供で、親が与えてくれたもの。自分が今ここにあるのも、全てそのおかげ。だから彼女は全身で吼えるのです。「これが私の戦争なんだ」と。ジオンを否定されるということは、自分の全存在を否定されること。そんなこと許せるはずが無い。家族を否定する輩を一人残らず否定してやる。これがこの少女の取った行動でした。一人の人の考えがどのようにして多くの人の生活に影響し、左右させてきたのか。形而上の観念が人と人との繋がりを作り、構成された血肉。それがこのロニ・ガーベイという少女です。


そしてもう一人は主人公、バナージ・リンクスという少年です。
母に、父に、ダグザ中佐に、様々な大人から、友人から、何を託され、どうやってそれ継いで行くのか、自分に課せられた責任をどうやって果たすか、明確なビジョンとして自覚した彼。ガラン・シエルからの降下直前、「これ」でも「お前」でも「箱の鍵」でもなく、「バナージ・リンクスユニコーンガンダム、行きます」と伝えた彼。「ジオン根絶のための殺戮兵器なんかじゃない」と、澱みの無い、真っ直ぐな瞳で。彼は今回の決戦場トリントンで、撃たず殺さず心で触れるという決断をします。しかしこの「悲しみを知る」という責任からでた行動が、結果、「人が誤解なくわかりあえる」というニュータイプ思想を人はどのようにして行えばいいか、それを戦場で証明することに繋がってしまう。ジオンという政治的な枠組みの外にあって、「ジオニズム思想の体現者」となってしまった者。主人公バナージ・リンクスはそういう少年になってしまったんです。


ロニを鏡合わせのバナージ、もう一人の主人公として配置し、それぞれの血統、その具象を比較させた上である思想を表現して見せた。僕は第四話をこのように読みました。で、まあこの二人の結末は「悲しいこと」になってしまうのだけど、こういうことが起こるのが戦争なのよね。スレッガーさんもそう言ってた。そういうお話。




原作と違いキャラが大幅に削られ、見せ場の多くを失い、しかも次話『黒いユニコーン』の内容まで詰め込みながら(これはアニメの尺と小説の尺の違いを考慮した結果かなぁ)、よく50分でまとめられたもんです。で、四話のカメラワーク(アニメだけど)が激しく劇場を意識した作り(飛行機上部、機首カメラ、大きな空を生かして飛行体に焦点をあわせるタイミングが遅い、など)なので是非とも劇場で。コクピット作画監督のクレジットは伊達じゃございません。狭い空間最高。そしてミネバ・ラオ・ザビのセーラー服的衣装というラビット・パンチで意識昏倒。ダイナーで食事をするミネバをあらゆる角度から、舐めるようにパンするカメラ。何て煩悩に忠実なコンテだ。たまらん。庶民食をがっつり平らげるミネバ様。おいたわしい。


てなわけで『ガンダムUC 重力の井戸の底で』でした。劇場版は復習用として「今までのユニコーン」が流れるのですが、フル・フロンタル大佐の「バナージ君、聞こえているならやめろ!このままではお互い大気圏で燃え尽きることになる!」という超上から目線の命乞いがあって大爆笑。それハイライトなのか。これが大人の特権か。あとダグザ中佐の敬礼は当然ハイライト。僕らも敬礼必須。『UC』は全六話を予定されてるので復習用映像があと二回は拝める計算に。つまりダグザ中佐にあと二回は敬礼できるって寸法で。はわわ。