リッパーコースター:『アンストッパブル』

2011年お正月映画。待ってましたトニスコ。色々記事上げてないけどこれだけは上げねば。ねば。


監督は僕らのトニー・スタ……、違うトニー・スコット。実は僕兄リドリーよりも弟トニーのフォロワーだったりします。え、もちろん『スパイ・ゲーム』ですよ。『コンドル』は忘れんな。俳優はデンゼル・ワシントンとクリス・『カーク船長』・パイン。音楽は僕らのH・G・『メタルギアソリッド』・ウイリアムス。編集は『クリムゾン・タイド』『デジャヴ』『ペラム123』『トップガン』の盟友クリス・レベンゾン(荒さが控えられてる『ドミノ』はウィリアム・ゴールデンバーグ『ヒート』『マイアミ・バイス』よ)。脚本に関しては前作『ペラム123』と年末のリドスコはヘルゲランド印のお話だったのだなぁ、とかしみじみ。ていうかトニスコ『ペラム123』で納得出来なかったんですよ多分。「リメイク前の『サブウェイ・パニック』はとても退屈な映画だ」とか言ってましたし。ヘルゲランドの脚本が気に食わなかったんだ多分。ていうか地下鉄じゃ火柱が上がらないから地下鉄やめたんですよトニスコ。しかしロジャー・エバート御大が『アンスト』を絶賛しているというのは何となく理解出来るような出来ないような。


内容はともかく視覚効果に関して散々言われてますねこの映画。チャカチャカした編集だとか無駄なズーム・インだとか場面転換のスロモ意味ないとかクドイとかもう散々。でもいいんです、そういう人はこの映画に一生かかっても追いつけないでしょうから。



ここに来てトニスコが映画というものの解体を行っている。


ガックガク。もう秒間12フレームないんじゃないのかってくらいガックガク。しかもバサバサ切る。映像の連なりに見えないくらい「間の絵」をバサバサ切るこの編集。シークエンスとしてギリギリの構成。観客を不安にさせて好奇心を促し、次の展開に食いつかせる、この先どうなるのか分からない「未知」の提示。確かにこれは映画の基本的な機能だ。では観客の恐怖を本能的に引き出す絵を撮るにはどうするか。その機能はどのように働くのか、という思考。




勇壮な列車の図。
列車カッコいい撮り。でもこれチラチラ動いて落ち着きのないように撮ってます。「俺らはじっとしてねぇぞ」と言わんばかりにガクガクです。安定した構図をブレによって不安定にさせる。動画ならではの絵の見せ方。こういう3点パースはオリバー・ストーンが好きそうだ。




ズラリと並ぶ巨大な列車、小さなデンゼル&クリス。
これは対比。人と列車の関係。列車の鼻面前歩かせて「列車動いたら死ぬぞこいつら」って不安をかきたたせる。圧力的。と同時に「今からこいつに乗って戦うんだ」という戦友意識もある。この絵の構成は映画の内容比率にも関わってます。その思考は下で。



何度も繰り返されるカットにこういうものが。

線路で仰向けカメラ真上を列車がゴー。これ超こええ。平面構成としては「左右対称な台形を逆さにする」もっとも落ち着かない構図。これは劇場の暗さを最大限に利用した「窓に蓋をする」演出。しかもその蓋は高速で閉まっちゃう。まるで空に向かって落ちるギロチンのよう。暗い場所だと落ち着かないってのも人間の本能ですし。スクリーンが地面に対して垂直であるってのはでかいです。「いつ倒れてもおかしくない」という視覚的不安感がでかい。ていうかこれ棺おけ視点よな?なんかここらへんやっぱりキリスト教圏の人間の撮り方なんじゃないかと思う。豆粒みたいな人間を鳥瞰的に眺めて回る空撮とか。「お空の上から」という超越的な存在を感じさせる視点がやっぱり多いですよハリウッド。




予告でも使われたシークエンス。踏み切り前に立つ人物の上半身が一瞬で黒く塗りつぶされてしまうという映像。勿論、人間の視覚は奥行きを計算し認識する能力がありますが、この列車の影は背筋が凍るほど黒く、そしてなによりも平面的です。ていうかシネマスコープサイズの黒って凄い圧力です列車収めるのに最適ですよこの比率。このまま列車が通り過ぎず黒く塗りつぶされたままならば、この人物(幼女!!ようじょ!!)が轢き殺されてしまうという「死」の印象を与えることになります。この電車はこの人物を肉片に変えず通り過ぎるだけですが、これはこの先に起こるかもしれない悲惨な事故の予感、その示唆となるわけで。ていうかその効果に幼女立たせるとか、あんた鬼かトニスコ



この映画の「速さ」について。
後半30分の速さ感が普通じゃない。ほんとあっという間。ていうか記号が的確過ぎます。登場人物が通信をまともに行えないほどの風。お互いの状況の確認が出来ない。意思が不通。最後尾の列車から噴き出す穀物。煙。火花。青い!!青いよトニスコ!!画面が青白いよ!!クリス・パインの肌までも速度で削り落とされていくような、この錯覚。はええ。あ、この映画100分ないんです。すげえ。
で、編集(最重要項目)。この映画は仕事の映画です。列車という異常な秩序を止めようとする人の仕事。ぶっちゃけると人が仕事してる映像繋ぎ合わせるとこの映画になります。「人間の映像群VS列車の映像群」という。他の要素はほとんど削ぎ落とされてます。日常パートなんかほんのわずか。状況の説明にしたってそうです。事件の俯瞰をTVニュースが作った報道の仕事として挿入してるわけですから。『マイ・ボディガード』時のトニスコなら速度メーターとカーブまでの距離テロップを表示してもおかしくなかったですよ。それをしないってのは、ギリギリまで絵力で喰いつかせて見せるぞって男気の表出ですよ。いや昔に戻っただけか。
「台詞で説明しない。視線で展開を誘導し、行動とその結果で観客を黙らせる」という加速を映画に持たせたのが『ボーン・スプレマシー』『ボーンアルティメイタム』のグラグラ揺れるぞポール・グリーングラスでした。マット・デイモンが窓を見る、カメラの焦点が窓に合わさる、ガラスの割れる音、外に飛び出すマット。こういう視線で説明するカットにほとんど1秒弱の尺しか持たせないで次の行動シークエンスに繋いでいく、といった感じ。しかしいくら「行動と行動の間の映像を省略する」と言っても人の所作が分からなくなるくらい「動きを切って」見せたわけではなかったです。『アンストッパブル』はこの部分をザクザク切る。デンゼルが右足上げたと思ったらもう左足が前に出てる(ダンダカ鳴り響くハリー・グレッグソンの音楽がさらに背中を押す)。「動きを追えない、視覚認識できないと不安になる」効果。なにそれただ見にくくなるだけなんじゃないかと思うと、これが違う。極度なアップやパースをかけてカッコいい撮りをするアホ映像と違ってそのレイアウトは非常にオーソドックス。例に上げると連結器を手動で(正確には足で)繋げるシーン。場面の編集自体はせわしないですがことカメラの位置取りは列車に並列して走らせる、シネマスコープ・サイズでは典型的なレイアウト。なので観客が状況を見失うほどには至らないわけで。この編集はこの映画に物凄い速度を持たせてます。ある程度「意味不明」でなければ観客は興味を持ってくれない。なので「何を説明したいか。はっきりとそのものに焦点を合わせて捕らえない」必要があった、ということ。
ただこの映画って映像の翻訳があまりににも粗暴過ぎるんですね。スチール一枚一枚だとブレまくってズレまくって意味不明なんで、このアプローチに馴染めない人はものすごい沢山いるんじゃないかと。情報の氾濫でパニックを演出する、と言えば聞こえはいいんですが。やりすぎると連続性持たせても意味不明になっちゃうわけで。あ、マイケル・ベイは凄いです。こんなんしなくても意味不明な展開の映画撮れますから(褒め言葉)。



遠慮が無く我の強い下品なカメラ。人によっては拒否反応を示す視覚。
しかし、これはつまり『アンストッパブル』が極めて自覚的な映画であるという証明にもなるわけです。


多くの映画好きは作家主義ってのに取り付かれてます。僕もそう。でもスクリーンに映る映像を観て「これは監督の、もしくは撮影監督の視点だ」と思うのは大きな勘違い。作り手が自分の作品に主観と全く同じ意図を持たせることが出来るか。そんなわけない。映画の視点とは作り手の手を、思考を離れた瞬間から、あらゆる立場の視覚から切り離された映画固有の視点を持つんです。カメラのレンズを通して「その時その場所に(この場合列車事故の現場に)居合わせた映画というものの視点」が生まれるってことなんです。物にだって主観はあるんです(意識があるという意味ではない)。いきなりグッと近づくズーム・インも場面転換のスロモで場面の強調を測るのも、「その場に人以外の視点がいる、その強調」でしかないのです。『バンテージ・ポイント』(エドガー・ラミレスの原動力が弟とかホモ臭くて大変よろしい。あとフォレスト・ウィトカーが幼女を抱え上げてるだけなのに発禁映像に見える不思議)は報道の視点、マスメディアが関わってしまった事件をその場にいた人間の視点に乗せてお話を伝えるというもんでした。『バン・ポイ』は「以上現場からお伝えしました」という報道からのニュース映像、報道の仕事で終わってますが、『アンスト』ではその事件を追うカメラの視点を借りずに映画を仕舞ってます。報道の仕事でなく映画の仕事って訳です。こういう部分にもその自覚性が表れてます。



トニスコが映画というものに自覚性を持たせたがったのはいつからか。それはおそらく、いや確実に『ドミノ』なんじゃないかと。
「まいねーむいず・どみの・はーべい。あいあむ・あ・ばうんてぃはんたー」
キーラ・ナイトレイが舌足らずという表現では決してない)
という自己紹介から始まる実在の〜とか言いつつ嘘ばっかやんけ話のあの映画。キーラ・ナイトレイのはみパン半ケツが拝めるあの映画。エドガー・ラミレスがコインランドリーで脱ぎ脱ぎする映像が最高にエロいあの映画。時間を逆行させて「これ嘘でーす」と事件を巻き戻して無かったことにするネタバレ映像とか。どんだけ詐欺くさい語り口なの。最後にホンモノのドミノ連れて来てツラっと話させるところとか徹底してます。「全部嘘ですよ。これは映画っていうドミノであって、人間のドミノとは違うんです」って言ってるようなもんじゃないですか。



トニスコは映画の視点を僕たちの視覚現実に何処まで近づけさせることが出来るか、という挑戦をもう随分昔からしてますが、今回はやばい。これはマジでやばい。僕たち人間は1秒1秒、そのコマそのフレーム毎に、しっかりと目の前の視覚を認識して次の現実を迎えているのか。そんなわけない。何かもうここまで差別化を測られると「映画ってのはドラマとかCMとはちげぇんだよヴォケが!!」とトニスコがカメラの向こうで叫んでいるような。古典的というよりは根源的な事物として、トニスコは映画をあるべき形に回帰させたいのかもしれない。そう見える理由がこの映画にはたくさん詰まってるから。僕らの視覚現実をこれでもかと言わんばかりに切り刻んで、見せ付ける。痛快な見せ物というのは、こういう連なりのことを言うんですよ。



どうでもいいですけどあの幼女えらいブッサイクですよね。あの娘を選択した理由が「別に轢き殺されて見えたっておしくないだろう?」と言わんばかりじゃないですか。「ようじょ」ってひらがなで書くと7.5倍はエロくなりますよね、印象が。

ありません。